マイカーの軌跡 ②

(創世記)ミニカ、シビック

15歳の時に鎌倉市内でまた引越し。これが今の実家になるわけだが、ここには2台の車が停められる庭がある。その気になれば3台も可能。

その頃の我が家の車は、父用が2台目のローレル(白のランドウトップで格好良かった)を経て日産グロリアに、そして母の車は件のミニカのままだった。

僕が免許を取ったのは1976年の12月、長島が巨人の監督に就任して2年目の年だった。自動車学校の待合室のテレビで長島巨人の日本シリーズ中継を何回か観たような気がする。

友人の何人かは既に自分用の車を持っていた中で、仲間内では比較的遅い免許取得だったと思う。
友達の家に行く、近所に遊びに行く、ちょっとした小旅行に行く、そして長野方面にスキーに行くといった場面でそれまでは友人の車の助手席もしくは後部座席で居ることが快適だったし、かといって車がなければ電車やバスで出掛けることにも何の不便も感じなかった。なんとなく漠然と免許を持っていたほうがさまざまな場面での行動の選択肢が増えるかな~ぐらいの軽い気持ちで免許を取ったのだった。

ところがだ。これからの自動車遍歴で述べていくように免許を持ち、自分の車を持って、自分の意思と都合で行きたいところに行きたいときに行くということがなんと楽しいことなのか、ということにすぐに気付いた僕だった。

特に感じたこと、それは電車やバスや飛行機(その頃はまだ乗ったことがなかったなかったが)と違って自分の運転する車には終点がない、というか終点は自分で決められるということ。その気になれば、道が繋がっている限りどこまででも行ける無限の前途があるのが車なのだった。

その気持ちは40年以上経った今でも変わらない。時間と燃料があれば、車はどこまでも行けるんだと時々胸がときめくのである。

と前置きはそれぐらいにしておく。 免許を取って最初に自分用として乗っていたのはミニカだった。なんというモデルだったのかは分からないがタコメーターも付いていたし、フロアシフトだったのでスポーツモデルだったのだと思う。

三菱ミニカ

360ccの軽規格の車だったが、エンジンは2サイクルで、時に白煙を吐き出しながらも元気良く走る車だった。

免許の交付を受けて数日後のこと。戸塚から遊びに来た友人をミニカで家まで送っていくことにした。自動車学校の路上教習以来、初めて自分の運転で外に出たので非常に不安。対向車との接触だとか、路肩の側溝への脱輪だとか、坂道発進の失敗だとか悪いことばかりが頭の中に次々と浮かび上がってくる。同乗の友人も免許を持っていない奴だったので何があっても運転を交代してくれる人はいない。

鎌倉の二階堂から八幡様の前を通って北鎌倉方面に。小袋谷のT字路を右折して常楽寺方面に。京浜女子大(今の鎌倉女子大)のところを左折して原宿方面に向かうが戸塚はまだ遠い。

東海道線と横須賀線の上を跨いで長尾台に来たあたりでギブアップ。なんとか戸塚まで行けたとしても、この道を一人で帰ってくる自信がないので友人を乗せたまま鎌倉に向けてUターンした。友人は横須賀線で帰っていった。今振り返るとなんとも可愛い話ではないか。

数ヶ月ですっかり町乗りにも慣れ、徐々に行動範囲が広がってきた。鎌倉市内の友人宅から藤沢や逗子の友人宅に。そして三浦半島や箱根へと遠出もするようになってきた。そうなると面白くてしょうがない。

何処に行くにも黄色いミニカでと、神奈川県内を走り回ったのだった。(今考えるとこの車で神奈川県を出た記憶はない)

初心者の僕にはとても運転しやすく、馴染みやすいミニカではあったが少しずつ不満も感じ出した。
まずは軽自動車というなんともシャビーな響き。多くは親の所有車ではあるが、大きな車に乗っている友人も多く、ミニカではなにかと肩身が狭かった。

もう一つはその動力性能。2サイクルとはいえ、所詮360ccの排気量である。西湘バイパスで出した最高速は三桁に届かず、その先の箱根の登りではとても辛かったことを思い出す。

更に言うならカーステレオが付いていなかったこと。海辺を走りながら聴く山下達郎は助手席か後席に置かれたラジカセからのものだった・・・

そんな僕の不満が聞こえたのか、僕専用の車として中古のシビック1200GLが買い与えられた。

シビックになったのはそれを選んだからではなく、友人の親が自動車整備工場を経営していて、その関係で手ごろな中古車が出たのを紹介してもらったのだった。たしか45万円ぐらいだったと思う。

シビック1200GL

いわゆる初代シビックで昭和48年型だったので、4年落ちぐらいの中古車だったと思う。

CVCCになる前のシビックで排気量は1200ccでシングルキャブという非常に地味なスペックではあったが、軽量でコンパクトなボディのせいもあって小気味良く走った。友人の乗るチェリーX1やカローラレビンというスポーツカーに引けをとらない走りだった。またFFのせいもあって雪道にはめっぽう強く、スキー場への足としても最高だった。

その他にもハッチバックボディの便利さ、明るい茶色のシート、そしてこの車から初めて付けたカーステレオ、ここは出たばかりのパイオニアのカーコンポを奮発した。カセット全盛時代には光り輝く存在感だった。

このシビックで行動範囲がグーンと広がり、ついに神奈川県を飛び出して東京、埼玉、群馬、長野、山梨、静岡は勿論、果ては島根の津和野までも走り回った。

まさに時間と燃料(金)さえあればどこまででも行けると思ったものだった。