オーディオの足跡(成長期)

<カーオーディオに目覚める>

パイオニアのコンポーネントステレオでロックとフォークを楽しんだ1970年代も後半となり、大学時代も残りあとわずかとなった。

大学3年の時に自動車の免許を取ったのが人生の一つの転機となる。
それまでスキーや旅行といえば、電車か夜行バスかせいぜいが友達の車。

車好きの友人が多い事もあって、自分自身が免許を持っていなくても不自由を感じない境遇だったのだが、男子たるもの免許の一つも持っていないとこれから先不便かもしれないと思い免許を取得したのだった。

我が家には父が乗る日産グロリアと母用の三菱ミニカがあったので、免許を取ると同時に僕の車はミニカとなった。
今では考えられない2サイクルの360ccのミニカは思ったよりも活発に走った。
湘南地方だけでなく、時には箱根まで足を伸ばしたりして一挙に行動範囲が広がる。
そうなると軽のミニカでは我慢ができなくなってきた。
自分の車でスキーやテニスに行きたくなったのだ。
で、買ってもらったのがホンダ・シビックGL

1.2LSOHCでシングルキャブ、出力は69PS/10.2kgmと今時の軽自動車とあまり変わらないスペックだったのだが、とにかくエンジンがよく回った。
当時のライトウェイトスポーツであった日産チェリーX-1A12型SUツインキャブで80PS)やカローラレビン(2TG DOHC115PS)に遜色の無い走りだった。

短いホイールベースと軽い車重とシャシーとエンジンのバランスがよかったのだろう。

都内は勿論、志賀高原、八方尾根、万座などのスキー場、果ては本州の西の果近くの津和野まで走りに走った。

ここでやっと本来のオーディオの話に戻る。
当時はパイオニアが初代のコンポーネント・カーステレオを発売した直後だった。

そもそも、当時の車のオーディオと言えばラジオ、しかもAMだけ。ちょっと高級な車には8トラックのステレオが付いている時代だった。

車の中で自宅のステレオで録音したカセットテープを聴いて楽しむというのは、一部の若いドライバーに限定されていた。

僕もミニカに乗っていた頃は、後席にラジカセを置いてカセットを聴いていた。
ところが、僕の友人には何故か車と音楽が大好きという奴が多く、日頃の移動は車で、しかもそれなりのカーステレオ付きが常識だったのだ。(今思えば、親の車を借りて、それにアルバイトで買ったカーステレオを付けていたのだろう。)

後席のラジカセも良いところがあった(そのまま出先で屋外に持ち出せるとか)が、さすがにちょっとショボいと思い、一念発起してパイオニアのカーコンポをシビックに付けたのだった。

カーコンポはカーショップで買った汎用のブラケットでインパネにぶら下げ、配線図とにらめっこをして(当時の車は取り説の最後に車全体の配線図が付いていた)ACC電源配線(キーをアクセサリー・ポジションにすると電源が入る)にカーコンポを繋いだ。
スピーカーは勿論リアのみの2CHだった(フロントスピーカーの付いている車は稀だった)が、同じくパイオニアのシビック専用スピーカーを取り付けた。

その音質、操作性は後席ラジカセとは雲泥の差で(あたりまえ)、ドライブが楽しくなった。

そのころ流行りのシュガーベイブ、大橋純子、荒井由美、山下達郎、高中正義なんかを聴きながら134号線をうきうきと走っていた。(ああ軽薄・・・)

時は流れ、大学を卒業した僕は某自動車メーカーに就職。
他メーカーのシビックでは構内駐車場に入れないので、自社製のジェミニに乗り換えた。
エンジンは1.8LSOHC110HP、十分な性能だった。

新車で購入したジェミニだったが、エンブレムを全て剥がしてOPELカデット(これがジェミニの原型となる車)のGT-Eのステッカーを貼り、ヘッドライプはBoschのハロゲンに、フェンダーミラーを外してドアミラーに、そしてステアリング・ホイールはMomo製、ホイールもカンパニョーロのマグネシウムに替えてすっかり欧州車気取りの車に仕立て上げた。

(勝手にお借りした写真のこの車、色も同じでOPELカデット仕立てのところも同じ。でも、アルミホイール(これは多分ATS)やドアミラーがちょっと異なります。でも、瓜二つ!)

勿論、純正のラジオはそのままにパイオニアのカーコンポを取り付けた。
これは第二世代のもので、軽く触れるだけで反応するロジックスイッチとオートリバース機構・曲の頭出し機能などが採用されたことで、シビックに付けていた第一世代のものからは随分と使い勝手がよくなっていた。

コンポの横幅がちょうど据付の灰皿と同じだったので、灰皿を外してピッタリと装着ができたことも自己満足度を押し上げた。

シビックで使っていた薄型のスピーカーは低音不足だったので、今回は箱型スピーカーをリヤパーセルシェルフの上に付けた。
スピーカー底面から出したネジを貫通させて締め上げる、パーセルシェルフとスピーカーの間にはショックアブソーバーかなにかの部品の硬いゴム足を入れたりして、オーディオ的にもそれなりに工夫していた。
このスピーカーは背面に光るロゴがあり、またまた配線図とにらめっこをしながら車の照明と連動させたることに成功、夜になると「KENWOOD」(だったか「PIONEER」だったか定かではない)の文字が浮かび上がり格好良い。

必要もないのに車を止めて外から眺めたりした。

自分の金で手に入れた新車のジェミニで自慢のカーコンポを鳴らしながら、この頃は清里方面に行くことが多かった。マイケル・フランクス、イーグルス、ボビー・コールドウェル、シャカタクなんかが新たな顔ぶれだった。

その後も、車を買い換えるたびにカーオーディオは進歩を続けていったが、初代ジェミニをいじくり回していたころの自作の情熱は再燃することはなかった。 

<再びホーム・オーディオに>

社会人になった翌年に結婚、鵠沼の古典的ともいえるアパートでの暮らしを始めた。

六畳と四畳半の和室とキッチンだけのシンプルな住まい、最寄の駅は江ノ電の柳小路、藤沢駅からも歩いて帰れる、新婚の二人には気楽で良いところだった。

取り敢えずのオーディオは実家から持ってきたパイオニアのコンポだったが、スピーカーのサランネットを張り替えたぐらいで、オーディオ道には入れ込んではいなかった。
途中、パイオニアのレシーバーの調子が悪くなり、友人から中古で譲り受けたヤマハのプリメインアンプを使っていたのだが、型番すら覚えていない。

19829月、大型台風18号の大雨は境川を氾濫させた。
我がアパートもあえなく床上浸水となり夜半に鎌倉の実家に退去、翌日戻ってきてみると全ての畳が汚水に濡れ、とても住める状態ではなかった。
特例的に会社が都合してくれた茅ヶ崎市中海岸の社宅に即日引越し。築年数はそれなりに経っていたが、鉄筋のしっかりした造りで各部屋も広く快適な住まいだった。

この引越しの前後になぜかオーディオ熱が再燃した。

テクニクスのEAS-16F10というフルレンジのユニットを購入し、藤沢の東急ハンズ(今は無き・・・)のできたばかりの工作室を(有料で)占領して一日でスピーカーを作り上げたのだ。

エンクロージャーは長岡鉄男氏設計のダブルバスレフ型である。
型番までは思い出せないが、高さが1m前後の立派なスピーカーだった。
面倒な塗装はせずにバッフル面には黒のカラーシートを、側面にはコルク風のカラーシートを張った。

<後日追記>
この長岡式スピーカーは1980年6月発表のDB-1であることが判明した。
当時の雑誌記事:(このBLOGの一番下に写真あり)
DB-1という型番のこのスピーカーは16F10を使用。外形寸法は350W×910(約)H×340D。
“奇跡の超低音再生システム”の肩書きに嘘はなくスーパーウーファーが裸足で逃げ出す超低音を吐き出しているようだ。

フルレンジ・スピーカーというのはだいたい低音が出ない、というか低音の量感に乏しいものである。
その欠点を補うためのダブルバスレフ構造だったんだけど、やはり低音が出ない、いやEAS-16F10独特の中高音の鮮烈さに負けていたのだろう。

ユニットのエージングが進めばそれなりの低音が出てくるだろうと待っていたのだが、せっかちな性格のせいで1年もしないうちにウーファーを足して2WAY化することを決心。
見た目の良さとエッジレスという奇抜さでフォステックスのエッジレス・ウーファーSLE22Wを選択、どうやって手に入れたのかは定かではない。


ハンダが苦手な僕にはネットワークを作るのは難しいと判断、これまたどこからかNECのチャンネル・ディバイダーを調達し、アンプが一つでは足りないので友人から古めかしいプリメイン・アンプを譲り受けた。という経緯を経て心ならずも完成したマルチ・システムだったが、チャンネル・ディバイダーのクロスオーバー周波数とゲイン調整、二つのアンプのボリューム調整がいつまでたっても決まらずにその実力(?)を発揮することはなかった。

更に妄想は暴走し、低音補強のドロンコーンを加えてみたのだが、よくよく考えればエッジレス・ウーファーはエッジが無いのだから当然空気が洩れて背圧はかからない。すなわちドロンコーンの駆動力が得られない筈である。
ダブルバスレフを塞ぎ、低音用のバッフルを追加し、挙句の果てにはドロンコーンまで追加したスピーカーは憐れな外観と化していった。

その外観と同じように僕の方もいったい何をやってるのだかわからなくなってしまい、魔のスピーカーは会社の後輩に半ば無理やり引き取らせた。
今になって冷静に分析すると、「塗装は面倒」、「ネットワークはハンダ付けがあるから無理」と決め付けていたことが自作の足かせになっていたのだが、逆に言えば、そのおかげで「自作の泥沼」にハマらなくて済んだのだとも考えられる。

気を取り直して、今度はメーカー製の名機に活路を見出す作戦に変更。
スピーカーはダイヤトーンのDS501に、そしてプリメインアンプはサンスイのAU-D707X Decadeを購入した。
いずれも重量級の本格派である。

結論から言えば、これで一気にオーディオの迷路から脱出、まさに「目からうろこ」のような素晴らしい音への激変だった。第一次黄金期の訪れである。

ただ、前述の自作スピーカー地獄を経験していなかったら、この黄金コンビのありがたみも分からなかったかもしれない。
DS501の密閉構造ながらも30cmウーファーの力強い低音とベリリウムスコーカー・ツイーターの奏でる鮮烈なメロディにうっとりとした。

時代はCDがその産声をあげる直前であった。(続く)

長岡鉄男氏設計のDB-1
もっと低音が出る筈だったんだけど・・・

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